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エスゾピクロンの散歩

パルプ・フィクション

クエンティン・タランティーノの最高傑作と呼ばれるこの映画「パルプ・フィクション」昨日まで知らなかったが今夜から私はパルプ・フィクションを知る女の仲間入りさ。マリア・デ・メディロス(配役はブルース・ウィリス演じるボクサーのブッチの彼女)むちゃ可愛い。来世なるメモに書き留めた。とりあえずそれソー・ソー・インポータントね。あんまり女のタイプ合う人周りにいないから画像添付はやめとくわ。ああいう容姿の女が好き。自分は可愛くて愛されてるって自信がオーラに形を変えて彼女を包み込んでる。白色の肌、ガラスのような瞳、瞳を包囲する繊細なまつ毛。彼女にはずっと朝日がお似合いです。っとここにつらつら女の趣味を書いていたんじゃ本題に戻れない。

タイトルから分かるようにパルプフィクション即ち質の悪い紙に刷られたくだらない作り話。それを3時間?覚悟はしていたがわりと肘や肩がばきばきになった。いわゆる群像劇で主人公はいない。登場人物が3つのストーリーの中で関わりを持ち合うの。私の拙い説明なんかじゃ理解できないだろうからそこは映画を観て知って。この映画を観て私が感じてたのは苛つき。終始苛ついてた。感情移入したのではなく、彼らの議論の無駄さに深いため息をついたり、ピンチなときに手間取って感情的に問い詰める女を見てゴタクはもういい〜!一分一秒を争うんじゃ!自分の置かれてる状況を素早く受け止めろ!犠牲は最小限に留めろ!出発!あとは出発!出発するだけなんじゃ!乗らんか!お前が乗らんとこの話は動かへんのや!ウワーーーーーーーッ!!という、明らかに映画を観る者の視点として最後まで焦り続けていました。終始心で(いいから!今はそんなことどうでもいいから早く!急いで!モタモタしないで!)と怒鳴っていた為精神がぐったりとしてしまいました。現実はそう上手いこと行かず、会話だってこんなナチュラルに脱線して続いちゃうんだよ、本筋ほったらかしてでも。とでも主張したげな本作は、もちろんそこが良いのだと言う人もいれば私のように気をもみすぎてやわらかくなってしまった人たちもいるかもしれない。ちなみにあえて時系列をシャッフルし後半から回収して謎を残さないさっぱり感は大好きなんだ。助かってほしい人はみんな助かったし、登場人物の人生はこれからも続いていく。この無駄な日常会話たちもすべて彼らの人生の一部と考えればまあ許せる。趣もあるしね。未来にちょっと希望を持てるラストでまあ、よかった。フーン、明日もよろしくってな感じで映画は終わった。この映画にさよならはない。続きは私の生活の中にきっと見つけられる。

蟻をいじめて遊んだ

大丈夫だよ!だから水を流し込んでみよう。アリさんの巣にはドアが付いていて、赤ちゃんはお母さんの隣の部屋で寝ているの。だから、大丈夫だよ!

おう、やっちゃえやっちゃえ。

 

かき氷を食っていたら親子の会話が耳に入ってきて胸糞悪くなる。アリは好きじゃない。苦手だ。一番苦手な虫だ。しかし無駄な殺生はよくない。無意味な攻撃も。自然じゃないから…。としか言いようがない。

昔を思い出していた。父の実家の庭には様々な虫が住み着いており、その中にはもちろんアリもいた。踏んで歩くのが2歳の私の趣味で、それが良いか悪いか、分からなかった。興味もなかった。他の人はどうだろう。自分以外も本物で、生きていると知ったのはいつ?踏み潰したアリを指差し祖母に見せた。同じように楽しんでくれると思ったから。

 

「家へ帰る途中だったのに。あなたが踏み潰してしまったから、もう家族に会えない。このアリさんにはお母さんや兄弟、もしかすると子供がいたかもしれない。でももう会えない。なんてかわいそうなの。見て、アリさんが泣いているわ。」

 

2歳の頃の記憶が抜けない。あまりに衝撃的で、忘れられない。白い階段の上から4段目で潰れた大きなアリ。曇り空がおばあちゃんの深刻そうな表情をよりはっきりと見せた。

殺したのだと悟った。アリさんはただ潰れたのではなく、死んだのだ。私が殺した。一匹のアリの死がとてつもなく大きなことに思えた。(無論小さなことではないが)

元に戻せない。生き返らない。私のせいで家へ帰れない。どうしたら?

 

どうにもできなかったので今まで引きずっている。

 

生物については義務教育の9年間と高校の3年間、あとは社会に出てから飼育した生き物の為に学習する機会があったが、あれほど為になった教育はない。

祖母はもうない。私が20歳の時に亡くなった。あの日のことを知るのは私と祖母のふたりだけ。今更何をどう考えても行動してもすべてが元通りにならない。逆に、どんどん遠ざかっていく。

 

「もっとやれ」

かき氷が溶けた。親子はまだアリをいじめて遊んでいた。アリが本物と知らずに。

世界の中心に向かって歩く

世界の中心に向かって歩く。ついさっきまで私のいる場所が世界の中心だと思い込んでいたのに、そうでないことに今、気が付いた。映画を観ていた。何の事前情報も得ずパケ借りして、あとはそういう修行のように4本の映画を1週間で観た。どんな物語も始まり、そして終わる。主人公が居て、世界を解釈する。映画の命は2時間、人の命は80年。人の命は長いが、それにしても、ただ始まり、終わる。映画のようなものだ。映画とたいして変わらない。主人公が不在、その一点を除けば。

私の映画には主人公がいない。今、気が付いた。私が主人公だと思っていたのに、そうでもない。そもそも主人公というのは、こう携帯ばかり触らない。ブログもツイッターもほとんどしない。するとしたら、それをきっかけに話の展開が拓けていくときだけだ。こうだらだらと、無意味な文をインターネットに散らかさない。あと、いつまでも同じ環境の中で燻ってなどいない。ところが私はどうです、高校まで一般的なレールに乗って、あとは道を外れて転落しているだけ。起承転結ならぬ起承転落。だからといって道を開こうともせず、死ぬのを待って落ち続けている。やれやれ。

かつて私が主人公だった頃、世界の中心は私であり、点であった。しかしたった今、世界の中心はどこにもない。正しく言えばある。点がぼやけて拡がって、世界を覆っている。中心が広すぎて、分からない。なんか今日は、それだけのことを覚えておきたくてアプリを立ち上げたよ。変だね。

 

― ここからは関係のない話 ―

「あなたって人と居るの苦手そうだよね。一人で居るのが好きでしょ。」と一人の先輩に声をかけられて冷や汗をかいた。態度にまで出てしまっているのだろうか。今後気を引き締めて、誰に対してもさらに優しくにっこり応対しなければ…!と焦りに焦った。でそのときは素直にハイと返事して会話が終了した。よく、会話が終了する。

こないだ見た、コミュ力の高め方みたいなのをまとめた記事には"返事はYesNoだけではなく、何故自分がそう考えるのかを付け加えましょう!"と書いてあった。けど、そんなことをすれば会話が続いてしまうがな。どうすりゃええねん?こんでええねん、墾田永年私財法。(韻踏めたか?)

話は戻るが、しかし、私の協調性の無さに理解を示してくれる人が現れたことには驚きとともに大きな安心感が生まれた。様々な現場を浅く渡り歩いてきたが、周りの人間はたいがい、一人で居る私をかわいそうに思い、構いたがったり、和を乱す存在として私を仲間内での共通の敵(?)にした。とにかく、むやみに人と関わりたくないという感覚が解らないらしく、いつまでも変に"浮いて"きた。逆に、これまでの職場で解る人に巡り会えなかった(もしくは解り合えるほどに関わりを持たなかった)こともおかしな話ではあるが、ようやく私の社会生活に光が挿してきた感がある。※ちなみにその先輩は今月末で退職だ。光はいつも近いが、近づけば遠ざかる。

よく勘違いされやすいのが、人が嫌いということ。人は嫌いじゃない。全然嫌いじゃない。余裕だ。人じゃなくて、人に(考え方や会話、行動などを)合わせることが最たるストレスなのだ。共有する時間が長ければ長いほど疲れる。極端に言えばナンパはできるが交際はゴメンだみたいな。クズだな。だもんでいつまで経ってもロンリープラネットです。マイクチェック、マイクチェック、ワン・ツー。

 

拡がった点はこれからまた私の居る一点に戻していく。私の人生は、そういう映画だから。

顔も名前も知らない我が子へ

「もしものことがあったら脳でも心臓でも全部あげるから呼んでね!」

弟にはそう言ったけど、果たして彼の非常事態に誰が私を呼んでくれるか、その時私がどこに居るのか。具体性がなくって毎晩ちらっと不安が過る。何のために生きるのか、考えたことが幸いにも無い。彼がいる限り、彼のドナーとして生きようと思っている。彼ではなくても、有望なすべての人間の為ならば。だから極端に言えば私の精神や進路がグチャグチャでも身体さえ丈夫なら構わない。逆に、病気を患うともうダメだって思う。私の価値はゼロ。人生が波乱万丈ってご指摘はもはや今更って感じで、これについて反省とか今後の対策なんて練りません。これからも私は私なりの道を行くべく激流に従うのみです。

 

なんて言いつつちゃっかり種の保存の本能も抱きしめており、どうにも諦めがつかない。子供が"ほしい"わけじゃない。というかはっきり言っていらない。この先20年も他人(我が子であっても)に人生を拘束されたくない。あと性交渉もしたくない。痛いから。もういいでしょ。だから勢いでエッグドナーに登録しようとしたんだよね。世界中の、子供に恵まれない夫婦に私の卵子を提供するんだ。そしたらWin-Winでしょう。(何が?)世界各地で顔も名前も知らない我が子、すくすく育ってほしいな。そんないい加減な願いだよ。誰かを助けたいとか後ろめたい過去があるとかじゃなくて、私の本能だよ。しかし何しろエントリーシートの質問項目が多くて苦戦した。親の生年月日や学歴、病歴も事細かに質問されたときにこの欲望は活動を停止。書いちゃったって構わないけどそこは私のモラルが許さないそうです。思えば当然なんだよね、だって遺伝のことだもの。親の承諾がいらないわけないんだよね。自分のつらい学歴病歴提供されてまで、私のこの利己的な要求を通してくれるわけないんだよ。でね、仕方ないので途中で諦めちゃいました。実りのない話。

 

私が死んだら私の遺伝子どうなっちゃうの?どうもならないほうが世の為なんだけどね。もし名前も顔も知らない我が子が生きる理由に悩んでも全然かまわない。それって、自分にはきっと理由があるはずだって信じて疑ってないってことでしょう。とても健全なことだから。誰かの為に生き始めたら、そこで自分の人生は途切れてしまうんだよ。だから、かまわない。自分だけの理由を見つけて生きておくれ、架空の我が子。

私(たち)は空っぽでした

いつも何かについて話すこともなくただ外が明るくなるのを待ったね。悪い奴ではないと知ってもらうために、 出会ったらまず握手をするのだと言って私にも同様に握手を求めた。握手ごときでイメージが拭われるはずもなく、君は明らかに悪人に見えた。しかしそれは私にとってどうでもよいことだった。君の途方もない美しさがすべてを包み込む。そこには爆音もDJの寝言も七色のレーザービームもパーリーピーポーのざわめきもなかった。

私は問う。どこから?君は答える「月から。」と。

私たちは基本的にロマンチックな人種であるからしてお互いの素性 について探り合うことはしなかった。というか知っていた。 私はともかく君を覆うオーロラの膜は薄く脆いメッキであることを。私たちは知り合っていた。

いつも何かについて話すこともなくただ外が明るくなるのを待ったね。 聞かれずとも今日の人間への恨みつらみと自分のふがいなさについて、相槌を待つこともせずひとしきり喚き散らしたあと、返事も聞かずにめそめそと泣いた。それが終わったら背を向けて窓の方をじっと見ている。朝日が昇るまで。君は私の背中を眺めたり、 狂ったように動画サイトでダフト・パンクのMVをループ再生した 。朝日が昇るまで。

夜が明けるとまた正気になって君の部屋を去る。君はチル過ぎて起きられないとかわけの分からない文句をつけて今日も単位を落とす。日の光にやられてすっかりトチ狂った私の帰りを待ったね。夜まで。

チル過ぎる仲間とチルしていたらいつの間にか就活シーズン終わっちゃったんだってね。バカだね。私はちゃっかり立ち直って次のステージでまた藻掻いてるよ。バカだね。月に帰ったって噂も知ってるよ。

一度だけ「そいつを殴りに行ってやる。」って言ったね。私があんまり荒れるから。慌てて止めたけど、後悔してるよ。殴りに来てもらえば良かった。君はいつも大真面目だったから。

いつも何かについて話すこともなくただ外が明るくなるのを待ったね。初めから何も話すことがなかったから。

5年2組はこの柵です。人数分の鮎が泳いでいます。1人1匹ずつ。1人1匹ずつ捕まえて先生のところへ持ってきてください。

 

日に照らされて光る鮎の背中をぼんやり眺めていた。必死で逃げ惑うもむなしく鷲掴みにされ空に晒された人数分の鮎たちは、乱雑に塩をまぶされ生きたまま焼網に乗せられた。活き良く跳ねていた尾ビレもしだいに動かなくなり、瞳は白色に枯れていった。私の鮎もしかり。私のせいで世を去ることになった鮎の最後をじっと見届けた。痛かっただろうか。寂しかっただろうか。私を恨んだだろうか。

数年経って人に話してもそんなことあったっけなんて皆の返事はわりとのんびりしたものだった。目の前で死んでいく鮎になど目もくれずふざけ合うクラスメイトたちの、子供ならではの(たぶん)残酷性には同い年ながらぞっとしたものである。

死んだばかりの鮎の身は、みずみずしくふっくらとして美味しかった。

 

命を頂きながら私たちは生きているのですとそういうテンプレがあるかのように淡々と先生は語る。三角座りでひそひそ笑い合う生徒の耳にその言葉は届かない。さっきまで泳いでいた鮎たちは頭と尻尾と骨だけになって纏めてLサイズのポリ袋の中。だけれど気にしないのである、それが当然であるかのように誰もそんなことには関心を持たないのである。まるで空気や水が当たり前にそこにあるかのように鮎の命だって奪われて当然なのである。

 

焼網から私を見上げる鮎の大きな瞳を忘れられず眠れない日がたまにある。痛かっただろうか。寂しかっただろうか。もしくは今も私を恨んでいるだろうか。

サボテンは夢を見る

なれるものならサボテンになりたい。欲を言うと足の生えたサボテンになって、たまに散歩をしたい。流れる景色が好きだ。たとえば、お気に入りの看板を見つけたとしても、橋がカッコよくても、流れていくの。なぜならサボテンは立ち止まらず、歩き続けるから。一瞬の出会いと永遠のお別れ。二度と会えないが忘れない。そんなさりげない宝物を脳に匿って、死ぬまで生きるだろう。そしてそのことを、私以外の誰かが知ることはないだろう。うーん。動ける植物ってなんてロマンチックなの。…実際のところ、うちのサボテンは胴をずんと鉢にめり込ませている。だが、彼らは不自由だろうか。敵なんていないのに一生懸命、今日もとげとげである。被害妄想の激しいやつらだ。だけど私は、そのとげとげが好き。潔癖ぶってるんだ君たちは。そんなところが好き。

 

本を読むのが苦痛だ。もちろん知的好奇心旺盛だったなら没頭したのだろうが、あいにく無趣味無関心無色透明無味無臭である私には外へ出て風にさらされることでしか生を実感できない。本を読むのが苦痛だ。景色が変わらないから。同じ場所で同じことを何時間もやるってことに耐えられない。心が腐ってもげるんだ。だけど彼は言いました「与えられた情報で、頭の中の景色が変わるのだ」

 

彼は若い頃毎日筋トレをやったらしいのでアンチ筋肉な私の身体事情を知らないのだ。知らないからそんなことを言える。同じ体勢で同じ本を読み続けることで削られる体力が気にかかり、景色なんて見えない。ここまでくるともう自分でも何を言っているのかわからない。

 

私たちがつまらぬちょっかいを出し合っている。今日もサボテンはズンと鉢に植わっている。私は歩く。景色が変わる。サボテンは歩かない。

サボテンは夢を見る。世界はサボテンの中にある。

私は歩く。風を受ける。日に晒される。

サボテンは夢を見る。世界はサボテンの中にある。

サボテンは歩く。風を受ける。日に晒される。

サボテンの夢の中で、サボテンは踊り続けた。