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エスゾピクロンの散歩

世界の中心に向かって歩く

世界の中心に向かって歩く。ついさっきまで私のいる場所が世界の中心だと思い込んでいたのに、そうでないことに今、気が付いた。映画を観ていた。何の事前情報も得ずパケ借りして、あとはそういう修行のように4本の映画を1週間で観た。どんな物語も始まり、そして終わる。主人公が居て、世界を解釈する。映画の命は2時間、人の命は80年。人の命は長いが、それにしても、ただ始まり、終わる。映画のようなものだ。映画とたいして変わらない。主人公が不在、その一点を除けば。

私の映画には主人公がいない。今、気が付いた。私が主人公だと思っていたのに、そうでもない。そもそも主人公というのは、こう携帯ばかり触らない。ブログもツイッターもほとんどしない。するとしたら、それをきっかけに話の展開が拓けていくときだけだ。こうだらだらと、無意味な文をインターネットに散らかさない。あと、いつまでも同じ環境の中で燻ってなどいない。ところが私はどうです、高校まで一般的なレールに乗って、あとは道を外れて転落しているだけ。起承転結ならぬ起承転落。だからといって道を開こうともせず、死ぬのを待って落ち続けている。やれやれ。

かつて私が主人公だった頃、世界の中心は私であり、点であった。しかしたった今、世界の中心はどこにもない。正しく言えばある。点がぼやけて拡がって、世界を覆っている。中心が広すぎて、分からない。なんか今日は、それだけのことを覚えておきたくてアプリを立ち上げたよ。変だね。

 

― ここからは関係のない話 ―

「あなたって人と居るの苦手そうだよね。一人で居るのが好きでしょ。」と一人の先輩に声をかけられて冷や汗をかいた。態度にまで出てしまっているのだろうか。今後気を引き締めて、誰に対してもさらに優しくにっこり応対しなければ…!と焦りに焦った。でそのときは素直にハイと返事して会話が終了した。よく、会話が終了する。

こないだ見た、コミュ力の高め方みたいなのをまとめた記事には"返事はYesNoだけではなく、何故自分がそう考えるのかを付け加えましょう!"と書いてあった。けど、そんなことをすれば会話が続いてしまうがな。どうすりゃええねん?こんでええねん、墾田永年私財法。(韻踏めたか?)

話は戻るが、しかし、私の協調性の無さに理解を示してくれる人が現れたことには驚きとともに大きな安心感が生まれた。様々な現場を浅く渡り歩いてきたが、周りの人間はたいがい、一人で居る私をかわいそうに思い、構いたがったり、和を乱す存在として私を仲間内での共通の敵(?)にした。とにかく、むやみに人と関わりたくないという感覚が解らないらしく、いつまでも変に"浮いて"きた。逆に、これまでの職場で解る人に巡り会えなかった(もしくは解り合えるほどに関わりを持たなかった)こともおかしな話ではあるが、ようやく私の社会生活に光が挿してきた感がある。※ちなみにその先輩は今月末で退職だ。光はいつも近いが、近づけば遠ざかる。

よく勘違いされやすいのが、人が嫌いということ。人は嫌いじゃない。全然嫌いじゃない。余裕だ。人じゃなくて、人に(考え方や会話、行動などを)合わせることが最たるストレスなのだ。共有する時間が長ければ長いほど疲れる。極端に言えばナンパはできるが交際はゴメンだみたいな。クズだな。だもんでいつまで経ってもロンリープラネットです。マイクチェック、マイクチェック、ワン・ツー。

 

拡がった点はこれからまた私の居る一点に戻していく。私の人生は、そういう映画だから。