009-009

エスゾピクロンの散歩

センセイの鞄

インターネットの男の子に勧められて読んだ。精神を病んで治って(?)からも識字障害がしつこく残っていたので読書は数年していなかった。改善されたのはつい最近のことで、空白を埋めるようにジャケ買いした本など急いで読み始めた。

 

川上弘美、気に入ると思う。感性に合ってる気がする。長編としては「センセイの鞄」が有名。』

有名ってまるで一般教養みたいな言い方をするが私はもともと活字に目を通すことに時間を割く趣味はなかったため、よく知らない。しかしみんな自分の好きなものを勝手に紹介することはあっても、"あなたに"とおすすめしてくれることはめったになかったので、ありがたく目を通すことに決めた。(小説を読むことは私にとって一大決心である。本を持つ手と縦書きの文字を追う目が疲れるから。)

 

有名らしいので今更ネタバレされて誰も困らないだろうしジャンジャン書いていくが、結論から言えばしくしく泣いた。しかしこの場では主に愚痴らせていただく。

 

高校の頃の先生(30くらい年上)と偶然通う飲み屋が同じで、ちょくちょく話をして、たまに一緒に出かけたり仲良く過ごすうちに好きになっちゃった37歳独身OLツキコさんの恋バナなんだけど。先生、登場時点ですでに死亡フラグビンビンですがな。もちろん死ぬんだけど本題はそこではないらしく、最後にチョロっと死ぬ程度でした。で私が泣いたのはその死のシーンなんだけど、これは本の感想とあまり関係ありませんな。

先生の淡白な返しが良かったな。一線を踏み越えようとしてくる若いツキコに対してあくまで大人の対応で避け続ける先生の、先生っぽい返しがさ。なんでこんな小学生みたいなことしか言えないのかというと私の感受性が小学生止まりだからなんだけど。

だけどなんだか二人の感情が揺れ始めたくらいからは目も当てられないな。いい大人が恋に揺さぶられて気持ちが締め付けられたり自分をごまかしたりする様子がもう嫌だった。文章が上手だからよく伝わってくる。気持ち悪さ倍増である。

いったい何が気持ち悪いのかというと実際は何も気持ち悪くなんかない。いくつになっても人間は感情に持って行かれて、理性的になれないことがあると思う。思うだけで、受け入れられない。私の中で、それは思春期の子供のイメージだから。ちょうど15から18くらいに経験したのと同じような感情が、37のヒロイン視点で描かれている。

また小説には読めない単語が随所に散らされていたが、好意を伝えるときだけは必ず「好き」なのだ。これもまたしらける。なぜなんだ。文学とはいったいなんなんだ。

たびたびお酒の入る話なので人の素の部分が垣間見えたって不自然じゃないが、それにしても。

 

これは私自身の話だが、大人に幻想を抱いてる。両親が完璧な大人を演じてくれていたおかげとも思う。大人はこうあるべきという狭い心が恥ずかしながらある。TPOに合わせた自分であるべきとか、何かを贔屓してはいけないとか、感情的にならないとか。すべての場にすっと馴染んでクール、それはまるでアップル社の製品のような存在であるべきという勝手な決めつけが。

それで恋愛感情に対してもやや否定的だ。特に25を過ぎてからの恋愛感情といったらみっともないったらありゃしないのでひた隠しにしてしまう。すっかり他人に惚気話をしなくなってしまった。あと好きな人に好きと言うことも。自分自身がそんなであるから、いつまでも感情に溺れて流されてしまう大人も同様に認めたくない。

それからもう一つ、好きの表現が「好き」しかないこともむなしい。常々疑問に思うことの一つだ。どんな賢い大学を出ても、ライターでも、大きな会社の偉いさんでも、みんな好きな人には「好き」と言うのかと思うとうんざりする。飽き飽きだ。語彙がない。日本にはそれしかないのだ。「好き」以上も以下もないのだ。「好き」は老若男女問わず共通の感覚?なのだ。本当につまらないがこればっかりはどうしようもない。

 

イヤな部分だけをしつこく愚痴ったが、なにせ泣けるほど良い話である。周りにそういう子たちがいたせいか、年の差恋愛にはたいして嫌悪感がなかった。年の差ならではのお互いの心細さや配慮、経験の差から生まれる孤独感(なんていうの?置いてけぼり感?)なんかありありと描かれていて染みた。まあその手の話は苦手なので、ここには書かずに寝かせておくけどね。

 

ところで私の感性ってどんな風に見えているのか?