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エスゾピクロンの散歩

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私の価値観が全てではなく、家庭の背景は千差万別なので、約束を守らないこと、ただの俗物なこと、いつまでも親の世話になってること、行動せず死を待つだけの存在なことなんかも、許されれば何でもありなのかも。許される場合があるんだよね。たぶん。私やあなたは許されなかったけれど。物や人間関係を取り上げられた。手に持ってる物で殴られた。まだ外も明るいのに、門限をすぎると家に入れてもらえなかった。お金がなく、充分に食べられなかった。テストがあった月のバイト代は少ない。入浴中にカバンをひっくり返され、持ち物の検査をされた。電話の履歴を印刷された。守れない約束について、言い分を聞いてもらえなかった。気に入るようにならなければ、何でも奪われた。私やあなたは許されなかったが、逆に、許される家庭で育った人もいる。許されてきた人はみんなにこやかで、すべてにおいてルーズで、あつかましく、他人の顔色を気にせず、無神経に発言する。衝突は当然、しょっちゅうで、いやになる。しかし意外と敵ではない。

他人に許されてきた人は、他人を許す人になっていくのだと思う。その大きな器が私を簡単に受け止める。私の器は小さくて、ひびいって、何も受け止められないし、受けたとて取りこぼしてしまう。

他人に許されてきた人は、他人を許す人になっていくのだと思う。その大きな器が私に似た小さな器たちを、あたたかく受け止め続けていくのではないか。

色んな育ちがあることについて、嘆くより讃えたい。