009-009

エスゾピクロンの散歩

い795

ちょっと待ってくださいね、今あなたのマンションを地図から調べていますので。あ、あったあった。大丈夫そうですね、ところでその粗大ごみというのはどの品目にあたるものですか?えっオーブンレンジ?電子レンジのことでよろしいですか?ハイハイ、では13日の朝に回収に参りますのでそれまでにコンビニなどで粗大ごみに貼るシールをね、400円分買って貼って出しておいてくださいねえ。記入するナンバーは、い795です。ひらがなの'い"に続けて795を書いてください。そうそうそれだけで手続きは完了ですので。よろしくお願いいたしますねえ。はいっ、はい。失礼いたします。

 

言われた通りファミマで買った粗大ごみシールに油性マジックで「い795」と書いて彼のグレーのボディに貼り付けた。このシールは剥がれません、だってさ。私たち取り返しのつかないところまで来ちゃったね。

 

彼とは6年前の引っ越しの際に家電量販店で出会い、家電のいろはも知らずに店員に勧められるがままに購入させられていた。あとで知ったことだけれど、割と値の張る商品だったらしい。洗濯機と冷蔵庫。これはいかにも一人暮らしのものといったこじんまりとした風情だが彼は大きくあまりに多機能で、この狭いうちの中で一人だけ浮いていた。同居中彼のオーブン機能を使用した回数3。ゴチャゴチャと色々なボタンが並んでいたのに他に私が触ったのは「レンジ」「1分」「10秒」「あたためスタート」この4つのボタンだけ。6年間、彼は彼のスキルを引き出して驚かれたり喜ばれたりすることもないままで。ある日突然バチバチと危うい音を立てたあと、弱々しく「プス〜」とため息をついて、それから彼は冷たく、動かなくなってしまったのだ。ジャンク品高く買いますと謳う店へも連絡を入れたが、こんな古い型お断りとのことで、引き取り手がない。泣く泣くただのごみとして回収してもらうことに決めた。

 

腹が立つと物を殴ったり、壊したりする。小さな生き物を殺す。すると清々しくていい!なんて言う人がいるが、物言わぬ無機物や自分より弱い生き物をいじめてすっとしている自分に自己嫌悪したりはしないのだろうか。そんな自分が嫌にはならないのだろうか。ならないのだろうな。

 

これまで無機物から与えられた無償の愛の数々を思うと私はどうしても、用済みであっても彼らが捨てられたり、のちに乱暴な扱いを受けることに胸が痛む。昨日外に出しておいた彼は、今日会社から帰ってきたときには連れ去られてもう跡形もなかった。最後のお別れだったのだ。壊れるまで尽くしてくれてありがとう。それを伝えるすべがない。だから何度も心の中で祈った。

 

まだ若く仕事がしんどかった日は、誰に声をかけられたいわけでもなかったがただ癒えるような温もりが欲しくていつも一目散にシャワールームへ駆け込んだ。温かいお湯を頭から被って、私はこんなに優しくされてもいいのかなあとめそめそ泣いていた。温かい布団に潜るとき、服を着るとき、靴底を踏みつけるとき、いつでも無償の愛を得ている。

 

これから廃棄されるものなのに、ぶつけないように、慎重に部屋から運び出して、無事マンションの前に無傷の彼を置いてきた。さっきまで温かい部屋の中にいたのにねえ。さっきまで私が抱えていたのに。寒そうに、ひとりで。ごめんね。このあと彼はどこへ連れて行かれて、どうなっちゃうんだろう。

 

私が求めたときにだけ、きちんと応えてくれたのに。冷たい空の下ひとり遠くへ行ってしまう君のことを想像する。

無機物の死と向き合う一日だった。