009-009

エスゾピクロンの散歩

ジュン

何年前だかそれすら忘れた。そのイベントには外タレが来ててフロアは無駄に沸いてた。DJデジタリズム。マンゴージュースでハイになって私は針金のようにカツンカツン、ヒラヒラ、ときどきヒトにぶつかりながら踊った。汗だくで叫んでいた。わけの分からない言葉を。クラブにいるときの私は変だった。ウィッグをかぶって、カラコンを目に入れて、つけまつげをして、タイトなミニスカートにハイヒールを合わせた。私じゃなくなりたかった。その時の私はちょうど、音楽になりたいと思ってた。ヒトとはうまくやっていけないけれど、音楽となら一緒になれるんじゃないかって気がしてた。スピーカーからブッ飛んで来る爆音は空っぽの内臓によく響いた。瞼を下ろすとピンクの細胞が透けて見えた。おじいちゃんは元神風特攻隊員。片道飛行機に乗ろうとしたとき戦争が終わったんだって。私は奇跡の子なんだって。身体を音楽が通過している間おじいちゃんの話を思い出してる。音楽が私に触れた途端溶けて、背中側からまた突き抜けていく。何度そういう妄想をしたってこの生活からは解放されない。分かっていたけれど、そのときだけは。音楽が私になって、また音楽に戻っていくとき。音楽が私を通り過ぎるそのときだけは完全に私を放棄したような気になれた。

プレイも終盤に差し掛かりそろそろ引き上げようとしたとき出会った美しい男がジュン君。月から来た男。カツラを取って化粧を落としてパジャマになって、私じゃなくなった私を見てもいつもと変わらず接した。私の本質になど興味がないといった風で。ときどきクラブへ一緒に通った。彼の日課はボロボロになって帰ってきた私を布団に寝かし付け「009は変じゃない。変じゃないよ。普通の女の子。ありふれてる。」と私が納得するまで何度も言い聞かせること。私は変じゃなかった。それなのに、周りとの関係に歪が生じていた。でも私は変じゃなかった。それを分かるために毎晩彼の部屋に向かう必要があった。彼は何事にも動じることなくそらまあそんなこともありますわなといった態度で私の妙な言動も受け流してきた。器の広い人なのだ。別れた人についてとやかくいうのもどうかと思うけど。彼はほとんど、私の保護者だった。ジュン君の美しさは2ヶ月くらいで消えた。はりぼてだった。そんなことは知っていた。どうでも良かった。普通だと思われたくて普通の人の仕草やイントネーションを真似てみる。服を似せてみる。みんな笑ったら私もちゃんと笑う。それが私には難しかった。私と周囲の人間との違いがわからなかった。だから心配なくて、つまるところ私もみんなの中のひとりに過ぎないのだと安心する。でも翌朝からまた変だ変だ浮いていると言われた。ジュン君は続けた。009は変じゃない。ちゃんと考えてる。普通の女の子。どこから見ても普通の女の子。

あれも何年前の話になるのかわからないが彼の言ったとおり、彼のいない世界で普通を装って生活している。ファッションや髪型が派手だから、内面に寄せていこうと思った。髪を黒く染め短く切った。つけまつげもカラコンもカツラもかぶらない。ミニスカートもピンヒールも処分した。もう他の誰にもなれないが私は私だ。普通に見えたくて、派手な友達と絡むのをやめた。常識人っぽい人間を側に置いて、私は安心していた。こうすりゃ常識人っぽいでしょ?

それでもやっぱり俗っぽいことに疎くて日常会話はつまらない。ビュッフェみたいに元取る為に多めに皿に盛られたケーキの欠片みたいな気持ちになる。やがて消費される、でも食べた人の記憶に残らない。そんな人との無駄な会話を延々と続けなければならない。使い捨てにされる私とその言葉。違和感を持っててもヘラヘラ笑ってる。たまらなく不愉快になって、たまに、誰を責めれば良いのかわからない日は夢の中のジュン君に会いに行く。変じゃないよ。君は普通の女の子。変じゃないよ、ありふれてる。