009-009

エスゾピクロンの散歩

淘汰されていく私たち

もういい歳だから、周りの女の子たちは当然のようにケッコンを意識し始めている。私は来年27になる。

高校時代、友人に子供がほしくないかと訊かれたことがある。「別に」みたいな、曖昧な返事をしたような気がする。適齢期を迎えれば、自然と母性というのがどこからともなく湧いてきて、無条件に子供がほしくなるものだ思っていた。実際、周りの女の子たちは子供がほしいほしいと言う。男の子ですらそんな雰囲気を醸し出し(?)始めたものだからたまったものではない。来年27になる。それにしても、私には一向にそんな気が起こらないものである。

結婚とか、出産とか、育児とか、住宅ローンや親の介護なんて、遠い遠い星での話のように思える。私はなんだか、みんなと同じ次元に生きられないような気がする。それらすべてに嫌気が差しているし、なんとかして一人でイビザにでも逃げたいとか思っちゃう。行っちゃおうかな。イビザへ行っても同じかな。

 

この世のすべての生き物が子孫を繋ぐ為に生まれてくるのだとしたら、私はとんだ欠陥品だ。

でも、大昔からそうあったように、弱者は淘汰されていくのが自然の掟なのだと思えば、気が楽になる。先のことは決め付けにくいけれど、私がこうやってうだうだととぐろを巻いている間に時間は流れて、いつか家系図を止めてしまうことになるんだろう。

申し訳ないような、それで良いような。

 

淘汰されるべき遺伝子?私は絶滅危惧種かもしれないと、女子会の最中にふんわり思いを馳せるのです。

孤独について

というか往々にしてぼっちである為、今更孤独について話すのもおかしい感じがする。私はそこそこ孤独である。この孤独とはあくまで状況のことであり、感覚のことではない。

 

009です/(^o^)\デイダラボッチとは何の関係もございません。

 

一人で居ることに慣れすぎて、他人が居ると逆に落ち着かないよね。分かる人だけ分かってください。一時的にヒト依存症になって、毎晩遊び歩いた。ヒトを求めていた。誰でもいいから側にいてほしいときがあった。その反動だか何なのか分からないけれど、今はめっきりヒトがだめだ。特別親しい人と、たまに会うくらいが精一杯だ。精神科の先生に"社交不安障害"(人と関わるの激無理病)という変な病名?を付けられた。でも日常生活に支障はない。私は案外、義務は義務として割り切れるタイプのようだ。

早い話独りが好きだ。つまり、このところ孤独感を募らせる機会が無い。寂しいって気持ちが清々しいに変換される脳味噌に変身を遂げたのだと思う。

それは良いとして、いつからそんな感じなの?と自問したところ「わりと最近?ここ数年?」という曖昧なアンサーを得た為、自分の変化について考えてみた。暇なので。

 

結論から言えば自分を気に入って、受け入れ始めたのがここ数年だったんだよね。若いとき(?)って抗えないしがらみ的なものがたくさんあって、ときには自分の意に反した言動を取って誤魔化し誤魔化し生きなければならなかった気がする。立場上、自分の正しいと思うことをできなかったこと、してはならなかったことがたくさんあった。

誰にでもあることだろうけど、私はそれを極端に窮屈に感じていた。違うでしょ?と思うことをさせられているとき、言わされているとき、死んでいる気がした。いや、それはちょっと極端過ぎるな。生きている気がしなかった。自分の意思を抑えつけられているとき、自分の人生を生きている気がしなかった。要は自分のことがどうしても好きになれなかった。自分じゃないから。

 

 学校を卒業して社会に出てまもなく実家を追い出され、私は初めてすべてのしがらみから解放された。これからは自分で自分の生きる社会を選んで良いし、自分の正しいと思う言葉を、行動を選択しても誰の迷惑にもならない。私が私として生きる生活が始まったのだ。

 

今は自分のことが結構好きだ。外見も中身もまあまあ好きだ。だから独りでも孤独じゃない。

本当の孤独は、自分に嫌われることだと思う。自分が嫌い→でも認めてほしい→他人に承認を求める→他人無しでは自分を肯定できない→そんな自分をまた嫌いになる悪循環。自己肯定できないと、どうしても他人に依存しがちになる。

自分さえ味方につけておけば、他人に求めることはなくなり…必然的にぼっちになる。アレ?別にぼっちを勧めているわけではない。そんなつもりではなかったんだ。

 

ただ、好きな自分で居ることで、孤独感って拭われるものだと思うんだ。そういう話がしたかったんだ。

 

私のことを自己中って言った人は、みんな私が自分の思い通りにならないのが気に入らなかっただけなんだと思う。でもこの1分1秒でさえもすべて私のものだから、誰の言うことも聞いちゃいけないの。これは私のルールだから。じゃ、さよなら。

夢の中で走ること

まばたきをすると時間がジャンプすることあった?まばたきをすると朝になっていた。知らない誰かの部屋にいた。いつもの道を歩いてた。職場にいた。まばたきをする前と後でシチュエーションが違うの。でも周りの反応はおかしくないから私が突然瞬間移動したわけでもなさそうだし。私だけが空気を読もうとあたふたしてるって状況。間の記憶がないの。そういえば最近ならないな〜と思って。若い人の病気なのかな。

 

009です\(^o^)/

時をかける少女 VS 時空の歪みババア(言ってみたかっただけ)

 

幽霊は信じる人にだけ視えるんだってさ。居ると思ったら居る。そういうもんなんだってさ。でもいくら信じても貯金は増えてないし、100万円あると思っても、やはり無いんだよ。だから幽霊なんて嘘なのよ。あと神とかも。

 

全然関係ないけど夢の中ってなかなか上手く走れなくない?私よく追われて殺される夢を見ていたんだけど、なぜ追われるのかはさておき、追い付かれて殺されるのは夢の中の自分を上手くコントロールできないせいだって思ったのね。だっていくら私でもあんなに要領悪い走り方しないよ、現実ならさ。言ってる意味分かる?月で走ってるみたいになるの。ふわぁんふわぁんって。気持ちだけ焦ってるの。分かんない?そうか、分かんねー奴には一生分かんねーよ。

そこで私は夢日記を書き始めたの。でも毎朝書けるわけじゃないから、余裕のある日に覚えている部分だけ。最初はあんまり思い出せなくてちょっとしか書けないんだけど、次第に文章が長くなってきて、そのときの自分の感情にも目を向けることができるようになるのね。でねちょっとオカルトじみた話になるんだけど、ここまでくればもう大丈夫なの。何が大丈夫なのかというと、夢と現実の自分を完全に同期できたということになるの。

たらたら書きやがって、そんなことかよくだらねえって思ったかもしれないけど、これ本当だから試してみてよ。私、殺されずに走って逃げ切れたんだから。それ以来追われて殺される夢は見てないよ。

 

クリスマスって好きじゃないんだよなー、10歳を境にプレゼントが枕元から消えたから。これは親情報なんだけど、どうもサンタさんってのは10歳を過ぎた子供の元へは来てくれないのだそうだ。だから、あれ以来ずっとブルーなシーズン。街は平気な顔で11月を無視してイルミネーションなんか飾り始める。私クリスマスって好きじゃないんだよなー。

お前はおかしい

「お前はおかしい」

これは頻繁に言われるのでもう慣れた。若い人たちの言うキチガイとか、異端児とか、若気の至りみたいな一時的な意味合いではなく、相手に「脳のどっかに欠陥があるんじゃないの」と言わしめる禍々しい何かが私の中にあるらしい。もうわかんないからわかんないまま生きていくね。これまで通り私は私の正しいと思う選択をして生きていくね。

 

009です\(^o^)/ついに「へんこ病」が治りませんでした。

 

今まで誰かを妬んだり羨んだことがなかった。だからもちろん、劣等感を感じたことも、対抗心を燃やしたこともなかった。誰々に負けないとか勝ちたいとか言ってる人のことを内心では馬鹿にしてた。狭い世界で生きて、窮屈そうだなあと思ってた。似たようなのが小競り合いしてもどんぐりの背比べだよと思ってた。だけど一番狭いのは私の世界だった。私ひとりで閉じていたのだから。

 

"自分は自分、人は人"が行き過ぎた例というのが私のマインドで、この考え方は逆に世界を狭くするんだよね。社会における自分の立ち位置とか、上下関係とか、成績の優劣とか、自分にまつわる数字とか。社会から見た自分になんて全然興味ない。大切なのは、いかに自分に尽くすかだから。他人の成果なんて私の人生に影響しないのだし、比べて優越感に浸ったり憂鬱になっているほど暇でもない。負けてはならないのは常に自分のだらしない心だけだ。昨日の私はもう古い。明日そう思えるようになっていたら、私は優勝者だ。今のところ、勝ち越してる。

 

それとは別に、私はけっこうなシチュエーションにおいて意見が受け入れられなかった。何かお門違いな発言をしていたのかもしれない。ひとつひとつの選択を馬鹿にされたこともあった。過去のことや友人関係、生活のことや服のことにまで言及された。それでもなおこの環境を守り続けているのは、自分のすべてを肯定していて、これが正しいと信じて止まないからだと推測している。(自分のことなのに、きっぱりとは言い切れないこともあるね)

 

「お前はおかしい」その後に続くのは「妙に自信がありすぎる」だった。

くだらないと思っちゃったからあまり真剣に聞かなかったけれど、"人は"(君がだろ?)だいたい何らかのコンプレックスを抱えていたり劣等感を持っていたりするもので、それのせいで正直なアクションを起こせずにいるものらしい。

私の言われる「おかしい」は、上の考え方に対する無理解さから来ているのだろうなとなんとなく解った。

 

根拠もないのに自信満々って、しかしおかしな話だね。確かにね。だけど逆を言えば否定的に捉えている自分の内面を肯定してくれる人が周りに居るから、君は安心して自分ディスりができるんじゃないのかな。誰も肯定してくれなくなったら、セルフ全肯定始めるっきゃないよ。わかってくれるでしょ。

 

 

君の信じているものを馬鹿にしても別にいいでしょ。

君は変わらず信じ続けていればいいのだし。

ちょっとやそっとで、揺らぐなよ。

ウルトラ葬

灰!

 

過去にSNSで暗い投稿ばかりしていたら、見かねた知人が「今後は暗い発言禁止!明るくいこう」と言ってくれて、そのときは私も(そうだなあ〜見ている人が不愉快なら、そうするかなあ〜)と思って暗い記事を書くのをやめたのだけど、違和感に気が付いて、その人を友人リストから除外し、また暗いことも幸せなことも日々のことも思いのままに書き綴るようになった。だって液晶の奥の文字列は全部私の遺言になるのだから。

 

見たいものだけを見て生きてください。009です\(^o^)/

 

誰かの為に書いているわけではないし、誰かを不愉快にする為に書いているのでもない。完全な独り言だ。独り言大公開。独り言の大海原。欲しけりゃくれてやる、探せ!この世の全てをそこにおいてきた!ちなみにワンピースは空島のところでダルくなっちゃって話追うのやめちゃいました。空島以降は人間で言うと"余生"じゃない?何言ってんのかわかる?私はよく分かんない。

 

さて、不穏な空気を醸し出したところで唐突だけど、死んだら直葬してもらおうと思う。また生きるとか死ぬとか言ってるねと思った君!特に反論はありません。

こういう格安火葬プランがあることを知った。

火葬式 費用(直葬)| シンプルな火葬式 14.8万円 格安葬儀

 

葬式って、しなくても法的には問題無いんだね〜。知らなかったよ。死後1週間以内に役所に死亡届を提出。実質これだけで法的手続は完了らしい。いいね。でも死体の処理はやはり必要なので、そこだけは各自なんとかしてくださいよって感じらしい。フムフム。私は浄土真宗の人だから、小さな頃から祖父に「生前の行いに関係なく、死ねば皆極楽浄土」と教えられてきたけれど、お葬式しなくてもちゃんと浄土へ行けるかな?まあ死んだ後のことは、死んでから考えるか。

そんなわけでさっそく遺書にメモ。葬式代(最低50万くらい)だけは貯めて死ななきゃ〜と焦っていたけれど、15万で全部済むんだったら気軽なものだよ。肩の荷が降りた感じ。全身脱毛より安いよ。

 

お前おかしいよ、普通人間はそんな常々死ぬことなんて考えないよ。なぜなら恐怖でバグっちゃうから。今のお前は非常に異常な状態。と心配(?)されたことがあったな。いつから死ぬことについて考え始めたのか思い出せない。思い出せないくらい死ぬことを想像している。憂鬱だからというわけではなく、現実的に、幸せな死に方とか、私の死により発生するお金のこととか、死ぬまでにしたいこととか、明日死んでも後悔しない今日の過ごし方とか。無責任な死って一番迷惑だと思うんだよ。全部他人に丸投げじゃない。死にダメもクソもないけど、生前散々迷惑を掛けた分、死に際スムーズにっていうのが私の理想だよ。

 

かつて自分の死体をホルマリンに漬けて、透明なロケットに積んでどこまでもどこまでも飛ばしてほしいと思ってた。いつか遠い星の誰かが拾って、博物館みたいな場所に展示してくれるといいなあと思ってた。生きてる間だけならまだしも、死んでも尚存在価値を見出してほしかったし、宇宙に忘れ去られるのが怖かった。そんな若い時代もあったよ。それだけ。

髪の毛のこと

昨日美しい海を見た。浜を見た。貝殻を拾って遊んだ。この頃は貝殻集めにハマっている。ビーチコーミングという遊びだ。楽しみ方は人によって違うけれど、私は拾い集めた貝殻を並べて撮影する。日付と場所を油性ペンで書いたジップロックに詰めてただ保管する。たまに眺めていい気持ちになる。なんの意味もない遊びだ。いくつになってもカラフルでキラキラが大好きだ。ときめく。ただそれだけの為に貝殻たちは連れ去られる。

 

海はなぜ青いのか。哲学的な回答プリーズ、009です\(^o^)/

 

またしても髪の毛を抜いてそこへ置いてきた。

私は毎度、また来たい場所へ髪の毛を1本置いて帰る。髪の毛じゃなくても良いような気もする。爪とか、つばとか。でも髪の毛を置いて帰るのが好み。

なるべく現世で叶えたいけれど、もし死んじゃっても、魂が帰って来られるんじゃないかなーって。髪の毛に。そのときこの景色を再び見るってわけ。そう、セーブポイントってやつ。絶賛全国展開中。

 

切羽詰まった生活に自己を見出しがちだから、充実していると感じた途端、自分が他人のように思えて(いいなあ、羨ましい)(私もあんな人生がよかった)って思っちゃう。自分のことなのに。自分のことのように思えなくて、幸せな瞬間は他人になっちゃう。後ろから見てるような。私の肉体が他人に乗っ取られていて、全然違う場所からそれを見ているような。そんな感覚に陥るよ。って言ってもあんまりわかんないって言われちゃったけど。早く自分の幸せになるといいなあ。

 

 

入ってるってどんな気持ち?と訊かれて、とっさに言葉にできなくて「人を内臓で受け入れるって、どんな気持ちだかわかる?」と質問を質問で返しちゃったね。でも、なんか納得してくれたらしくて助かった。私はよく分からないし、こればっかりは分かりたくもないよ。

死ぬこと

映画「最高の人生の見つけ方」を観た。元のタイトルは"the bucket list"(死ぬまでにやりたいことリスト)。どうしてこうも内容に誤解を生むような邦題になってしまうのか。解けない謎である。

サラッとネタバレすると、余命僅かの二人のおじいちゃんが後悔なき人生をとタッグを組んで世界を旅するお話だ。死に対してポジティブに立ち向かう話はありがちだ。が、好きだ。死と言えば重く受け止められたり嫌な顔をされがちだが、生まれること同様に命あるもの全てについて回るものだ。死も人生の一部だ。

 

毎晩死ぬ日のことを想っている。いつまで思春期営業しているんだ?009です\(^o^)/

 

最近飼育していた昆虫が死んだ。ばたばた死んだ。35頭いたカイコの幼虫は、成長過程で死に、変態途中で死に、無事蛹になったのはたったの1頭だ。その1頭も羽化できるかは分からない。もしかすると蛹のまま死んでしまうかも。だってそういうことも往々にしてある。

 

私は好んでよく昆虫を育てるが、生憎彼らの生命のサイクルはショートスパンで、しょっちゅう死に目に会う。孵ったときから育てた昆虫が、その一生を私の部屋で終えるのだ。残酷な話のような気もするがこればっかりは仕方が無い。私の娯楽の為に生き、死んでいただくほかない。もちろん私もその命の為に尽くすが、どれだけ努力をしても、死んでしまうものは死んでしまう。こちらはありがたく命を消費させていただくのみだ。虫たちの中にはひとりで死んでしまうものもいたし、子孫を残して死んだものもいた。育てた虫の子孫がまた私の部屋で短い生涯を終えたときに気が付いた。

死ぬってそんなにたいしたことではないのだと。

 

最初に育てた虫が死んだとき、明日会社に行けるか不安になるほど泣いた。生き物の死にはいつまでも慣れない。今も慣れたわけではないが、だんだんと受け入れられるようになった。寿命という観念を思い出したからである。

だいたい4ヶ月がその虫の寿命だ。まあまあ全うした方だ。みんな寿命で死んでいったのだ。こう思うと気が楽になった。

私もいつか死ぬ。ヒトの寿命はだいたい80年と言われている。成長過程で死ぬか、羽化不全でも生き延びるかは分からないけれど。死って、毎日の中に潜んでいる。見えないけれどごく当たり前のことだと思う。

 

毎日のように死んでいった虫たちを思い、スパンは違えど自分も彼らのようにいつかサイクルに巻き込まれ当たり前のように死に、翌日から私の居ない世界が問題なく回り始めるということを思う。

 

怖くない。